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64px

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「それが僕の記憶か否かを分けるのは64px四方の情報で十分なのだという」
 

 
過日、私たち人間をも上回るパフォーマンスを叩き出した、ある著名な機械学習(AI)を用いた画像認識の手法によると、「その写真を僕か僕じゃない他人のどちらが撮ったか」や「この写真が多数の良いね!を得られそうかどうか」などを識別させる程度であれば、おおよそ64px四方程度の画像で十分なのだという。それはすなわち、人間がそれらを識別するのもまた、その程度の規模の情報で十分だということを意味している、ということでもある。
 
たかだか数千画素のデータに圧縮され、畳み込みとプーリングを繰り返して断片の集合へと整理される僕と僕の記憶。これはあなたの記憶ですね。これは貴方の記憶ではありません。やあこの写真は人気ですよ。こいつは出しても無駄じゃないかな。僕の記憶が自らのものであるかそうでないか、僕が社会からフィードバックを得ることが出来るか否か。それは、それらを分かつ必要にして十分なデータは、jpgにしてわずか数キロバイトに過ぎないのです。AIはそうやって僕たちに明晰な結果を与えてくれる。
 
しかしAIは知らない。
漫画のように色づく紅葉の前にごった返す人々の喧騒のなかに、使い方がよくわからなくてと笑いながらスマホを取り出して写真を撮る二人にふと訪れた一瞬の静けさを。
 
しかしAIは知らない。
夏も終わりに近づいて慌てて湿気る直前の花火セットを抱えて近くの公園に向かっては、黙々と火をつけてシュワシュワと煙を上げ燃え上がる下で小さく揺らめく蝋燭の光を。
 
しかしAIは知らない。
幼少に見上げた巨大な大仏は記憶の中ほどには大きくは見えず、久しぶりに会った両親の歩みもまた小さく遅くなり髪の根元の色も白く変わってしまっていたことの衝撃を。
 
そしてまた、AIのみならず、AIが華々しく掲げる成果に驚かされる私たちもまた気づかない。
 
データ化によって欠落した、普段まったく意識しないほどかすかな、無数の取るに足らない小さな生活の断片、記憶の断片のきらめきこそが、真に僕を僕ならしめるための構成要素に他ならないことを。
 
私は、私の固有の写真・固有の記憶・固有の体験の根源が何であるのかを探るために、私がかつてその場に居合わせカメラを構えて撮影した幾つかの写真を、それがこの写真であると識別可能な程度の最小寸法に近い64×43pxへ圧縮した。
 
制作した2752画素からなる画像からは、詳細なディティールが概ね消失しているが、私たちは意外なことに(そしてAIが識別可能であると誇るように)、これらの写真がどのような固有性を有していたかの判別、また、その写真の示す状況がいかなるものであったかをおぼろげながら推察することが出来る。
 
さらには、これらの曖昧な写真を凝視し、全体や部分を観察することを通じて、各々が持ち合わせているはずの”記憶の断片”をこの画像に当てはめ、膨らませていくことで、あたかもそれが最初から自分の記憶であったかのように再構成可能なようにも思える。
 
これは、私に帰属する固有の要素を探査するという当初の思惑を越え、この画像たちが我々に共通する”何か”のヒントを与えてくれるような、新たな振る舞いをしているようにも見えてくる。
 
この写真から失われたディティールへの探索を通して引き出された貴方の記憶は、果たして私の記憶と区別可能だろうか。